アテルイ・モレとは|関西アテルイ・モレの会
アテルイ・モレとは
阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)
奈良時代、朝廷は神亀元年(724)、今の宮城県仙台市東北部に多賀城を築き、陸奥の「まつろわぬ民:蝦夷」攻略の拠点としました。天平21年(749)、陸奥の国で初めて金が取れ、聖武帝は年号を天平感宝と改元するほどの慶びでした。
天平勝宝4年(752)、東大寺にて廬舎那仏の開眼法要が盛大に営まれます。このような時代の中で、朝廷は多賀城を強化して蝦夷攻略を本格化し、宝亀5年(774)から弘仁2年(811)まで朝廷と蝦夷の「38年戦争」が続くことになります。
朝廷から幾度も大軍の派兵があり蝦夷の抗戦が続く中で、延暦21年(802)、蝦夷の頭領アテルイと副将モレは征夷大将軍坂上田村麻呂公の勧めにより休戦に応じて上京しますが、田村麻呂公の嘆願もむなしく、二人は河内国杜山(又は椙山或いは植山:現枚方市)にて斬首されました。
その後も蝦夷と朝廷軍との戦いは続きますが、弘仁2年(811)、和賀・稗貫・紫波三郡の設置により朝廷と蝦夷の「38年戦争」が終結し、再び陸奥の地にしばしの安寧が訪れ、その後この地方に花開く平泉文化の基となりました。この年は奇しくも坂上田村麻呂公が逝去(54)された年でした。
<国史に記載された事例>
- 延暦21年(802) 4月14日
- 阿弖流為と母禮は兵五百余名を率いて胆沢城の坂上田村麻呂将軍に投降した。(類聚国史)
- 同年 7月10日
- 田村麻呂征夷大将軍に従い上京した。(日本紀略)
- 同年 8月13日
- 公卿の執論の結果、河内国※注で処刑された。(日本紀略)
※注
「河内国」については、
「河内国椙山」「河内国植山」「河内国榲山」「河内国牡山」…など
書物や見解により複数の説が見受けられ、「河内国のどこかである」こと以外は詳細不詳とされている。
碑の建立
アテルイ・モレの碑文
八世紀末頃まで東北・北上川流域を日高見国(ひたかみのくに)と云い、大和政府の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。政府は服属しない東北の民を蝦夷(えみし)と呼び蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征東軍を動員した。
胆沢(いさわ:岩手県水沢市地方)の首領、太墓公阿弖流為(たのものきみあてるい)は近隣の部族と連合し、この侵略を頑強に阻止した。なかでも七八九年の巣伏(すぶせ)の戦いでは勇猛果敢に奮闘し征東軍に多大の損害を与えた。
八〇一年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて戦地に赴き帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築いた。阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に降った。
田村麻呂将軍は阿弖流為と副将磐具公母礼(いわくのきみもれ)を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし、公家達の反対により阿弖流為・母礼は八〇二年八月十三日河内国で処刑された。
平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為・母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺境内に建立す。両雄もって冥さるべし。
一九九四年十一月吉祥日
関西胆江同郷会 アテルイを顕彰する会
関西岩手県人会 京都岩手県人会
アテルイ・モレの顕彰碑の碑文
八世紀末頃、日高見国胆沢(いさわ:岩手県水沢市地方)を本拠とした蝦夷(えみし)の首領・阿弖流為(アテルイ)は中央政府の数次に亘る侵略 に対し十数年に及ぶ奮闘も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降り同胞の母礼(モレ)と共に京都に連行された。
田村麻呂は敵将ながらアテルイ・モレの武勇・人物を惜しみ政府に助命嘆願したが容れられず、アテルイ・モレ両雄は八〇二年河内国で処刑された。
この史実に鑑み、田村麻呂開基の清水寺境内にアテルイ・モレ顕彰碑を建立す。